Mollusk

集積所。

「紙の束」に纏わる神話

 ある広告*1の中のハートの形に折り曲げられた本。それに対する嫌悪感を表明するポスト。返信欄には、同様の意見がぶら下がっている。

 こちらは、「ブックフォールディング」に対する嫌悪感を表明するポスト。

 

 言うまでもなく紙の本は、その物体としての性質上、折り曲げたり、破ったりすることができる。そのため、紙の本は「折り曲げ、破られる」際にそのメディアとしての物質性を露にされると言えるだろう。上記のポストは、紙の本を単なる物質として扱うことに対する、ある種の人々の嫌悪感を代表している。

 紙の本がその物質性を露にする瞬間。その瞬間に拒否反応を示してしまう人々は、本の物質性から目を逸らしている。そのような人々にとって、本の本質は、何か精神的なものであり、本の物質的な側面は非本質的なものとして軽視される。言ってみればこれは一つの神話であり、本を単なる物質として扱うような行為は、その神話に対する冒涜として捉えられる。*2

 とはいえ、紙の本に「文字が印刷された紙の束」以上の価値があるにせよ、その価値の受容は物質的な諸条件に規定されている。UD(ユニバーサルデザイン)フォントの存在や、市川沙央『ハンチバック』において描かれた「読書文化のマチズモ」を引き合いに出すまでもなく、読書という行為は誰にでも開かれたものではない。本の「本質」とされる「精神的なもの」へのアクセスに支払わなければならないコストは、個々人によって異なるのが現状だ。

我々が物質的な存在である以上、読書を巡る物質的な諸条件から解放されるには多くの時間が必要だろう(状況はテクノロジーの進歩で改善されてきているにせよ)。このような状況では、本の物質的な側面を避け、その「本質」へ向けられたまなざしは、極めて排他的な状況を作り出しかねない。その意味で、上記のような「神話」に加担することは暴力的でさえある。本の物質的側面を不可視化する神話。我々はその神話を通して世界を見ることをやめなければならない。

 

 

*1:株式会社文藝春秋が9月5日から開催する「文春文庫 秋100ベストセレクション」の広告。イメージキャラクターに、上白石萌音が起用されている。

*2:一方で本のデザインはその「本質」を否定しない範囲内で、「神話」を肯定することを前提に歓迎される。

ありふれた奇跡に賭ける

読書という選択肢を他人に提案することは、時に暴力的でさえある。世の中には本を読むことが苦手な人がいて、そのような人たちにとって上記のような提言は極めてエリート主義的に聞こえるだろう(そしてそのような人たちの数は極めて多い)。プロのマラソン選手が毎日何十キロもの距離を悠々と走っている一方で、大多数の運動に興味のない人間にとっては数キロの距離を走ることさえ難しい。同じことが読書についても言えるだろう。このような現実を認識していなければ、「本を読め」という提言は「読む人」と「読まない人」との間の分断を強める結果にしか繋がらない。知識の差によって生じた分断を狭めるために提案した読書という選択肢が、分断をさらに大きなものにしていく。

そもそも、大多数の日本人は労働の合間に発生したわずかな余暇を読書という行為に充てようとは思わないだろう。労働に従事して疲弊した肉体は読書という行為を拒絶する。そのような状態の人間に「本を読め」ということにどれほどの意味があるのか。読書は特権的な行為であり、「読む人」はそのことに自覚的でなければならない。

恐らく、他者に本を読むことを薦める心性の根底にはある種のイデオロギーが存在している。そのイデオロギーは、「正しい手順を踏めば人間は相互に理解し合うことが可能である」と囁く。しかし、他者とは、自身と共約しえないからこそ他者なのであって、人と人との関係性においては分断こそが正常な状態なのだろう。そこで日々生じているコミュニケーションは、ありふれた奇跡に過ぎない。

他者は基本的には自分の思い通りにはならない存在だ。その意味で私は日々をある種の諦めを前提として過ごしている。しかし、諦めが前提としてあるからこそ、コミュニケーションというありふれた奇跡が一際強く輝きうる。その意味で私はニヒリストではない。(それが暴力的な行為となりうると自覚した上で)他者に対して本を薦めることもあるだろう。

椅子を買った話。

午前中に椅子が届いた。数日前にAmazonで注文したものだ。集中して本を読むためにはちゃんとした椅子が必要だと考えて、購入したのだ。

今の住居には座椅子はあるが、その上では読書に集中できない。理由の一つは、その座椅子に肘掛けにあたる部分が備わっていないことだろう。肘掛けがない椅子は、身体を外の空間に対して自由に開きすぎる。空間的に限定されない身体の前には無数の選択肢が提示される。その中から一つの選択肢を選び、実際に行為に移すと言うプロセスは自分にとってとても億劫なものである。加えて言えば、当然、提示される無数の選択肢は一つの行動に対する集中を妨げる。

座椅子は座面が地面に直接接しているため、その意味でも外の空間に対して開かれ過ぎている。シームレスに座椅子の上から地面へと移動できてしまうという構造も、行動の選択肢を増やすことに一役買っている。

今回買ったのは、脚が4本ついた、肘掛けの備わっているタイプの椅子だ。座面は地面から30cmほど離れており、楽に腰掛けることができる。肘掛けがあり、身体を覆うような構造をしているので、行動の選択肢が適度に限定される。この椅子の上では、読書中も、他の行動の選択肢が目の前をチラつくことはなさそうだ。そうであれば何にも煩わされずに読書に集中することができる

言うまでもなく、人間の行動は周囲の環境から大きな影響を受けている。そのため、行動を変えるためにはまず環境を整備しなければならない。引きこもりがちで自室で多くの時間を過ごしている自分にとって、新しい家具を導入することは、自身の行動習慣を一変させてしまうような影響力を持ちうる。その影響を上手くコントロールすることで、自分の生活をより豊かなものにしていきたい。

小さな革命の実践

横道誠『みんな水の中』と綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』を読んだ。発達障害の当事者が、「自身の接している世界がどのようなものであるのか」について、経験を交えながら書いた本である。ユクスキュルの「環世界」の概念を引くまでもなく、同じ人間同士でも見ている世界は異なるものだ。横道や綾屋は精緻な分析によって、世間からは理解されにくい自分達の感覚や行動、心の動きについて、さらにはそのメカニズムについて記述していく。著者たちは、我々が無意識のうちに捨象している刺激の渦の中にダイレクトに巻き込まれ、戸惑いながらもなんとか生活を成り立たせようと工夫を重ねている。

世界から享受される多種多様な刺激に、直に向き合わざるを得ない人たちの生活から生まれた二つの著作は、逆説的に、我々の日常生活が世界に対して閉ざされたものであるという事実を明らかにする。この社会は、それを構成する個々の人間に、あらゆる刺激に対して鈍感であることを強いている。端的に言えば、資本主義社会は「何も感じない」人間を欲していて、発達障害者たちはそこからは遠いものとして排除されているのだ。

他者の「環世界」についての精緻な記述は、自身の「環世界」やそれに対応するメカニズムを変化させうるだけの力を持っている。ならば、そのような他者の言葉に耳を傾けることは、自身を変革するための一つの有力な手段となりうるだろう。世界に対する不感症は、他者の声に耳を傾けることで解消されうる(加えて言えば、芸術とは世界に対する不感症を解消するものの総称である)。それがこの社会にとって都合の悪い人間になることを意味するのならば、この不感症を解消し、世界に対する自身の解像度を上げることは、小さな革命の実践である。

日記(23-07-27)

今朝は少し頭痛を感じながら起きた。シャワーを浴びて出かける準備をした。目的地に着く頃には、身体が怠さを自覚し始める。鼻水が止まらない。くしゃみが15〜20分ほどおきに出る。症状を自覚すればするほどに体調が悪くなる。風邪をひいたようだ。

ここ一ヶ月で色んな人と会った。自分は、人と会う前は緊張で、人と会った後は緊張からの解放で、疲弊していく(実際に人と会って行動を共にしている時間に疲れを覚えることはないのだが)。他人と行動を共にするということは、他人とリズムを合わせるということである。ちょっとした仕草や声のトーン、会話のテンポや相槌などを相手に合わせてチューニングする。これらのことを無意識下でなんなくこなすことができる人間がいる一方で、自分のように細部に至るまで意識して他人とリズムを擦り合わせようとする人間もいる(そしてその試みはしばしば失敗に終わる)。

今月は色んな人と会った。そのためいつもより疲労が溜まっていたのだろう。それが原因で体調を崩してしまったのだと思う。

自身の身体に固有のリズムを状況に合わせて上手く生成変化させていくこと。それが致命的に苦手だ。

日記(2023-07-23)

外出するときは必ず複数冊の本を持って行く。外出先で手持ち無沙汰になった時(ちょっとした待ち時間や公共交通機関での移動時間)に、手元に何も読むものがないと言う状況は望ましくない。なぜ複数冊の本を持っていくかというと、その時々の気分によって読む本を変えたいからだ。そのために本の種類を適度にバラけさせている。アメリカ文学についての本が読みたいという時に、言語哲学に関する本が手元に5冊あっても仕方がない。

今日は、アンドレ・バザン『映画とは何か』、アーサー・C・ダントー『アートとは何か』、スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイルズ』、横道誠『みんな水の中』、山口裕之『語源から哲学がわかる事典』を持って外出した。これらの本を喫茶店のテーブルの上に広げて読む。

とは言うものの、実際には本を読まずにスマホを触っているだけの時間も多々ある。重要なのは、外出先においても本を読むという選択肢が排除されていないかどうか。いつでも何かしらの本にアクセスできるような環境が整えられているかどうかだ。環境が行動を形成する土壌となり、行動が積み重なることで習慣が生まれる。

自分にとって読書は習慣的な行為だが、それゆえに意識的にそれを行うことはとても難しい。例えば、必要に駆られて「読まなければいけない本を読む」ということが、とても苦痛に感じられる。

日記(20-07-20)

依然東京。カプセルホテルにて8時ごろ起床。荷物をまとめてホテルを出る。ドトールでバザンの『映画とは何か』を読みながらダラダラとモーニングを食べる。

その後、東京都現代美術館で開催されているデイヴィッド・ホックニー展を見る。几帳面なまでに整然とした構図と、ウネウネとした生命力を感じさせる線によって描かれるモチーフの対比が画面に緊張感を生んでいる作品が多い印象。特に植物(主に木)が特権的なモチーフとして何度も扱われている。多分それは「線」への傾倒が要請した物だと思うけれど。理性としての「線」ではない、たどたどしい線の集積が面白い。初期作品のフランシス・ベーコン感も意外だった。空間の分解と再構成によって時間の厚みを表現したかのようなフォトコラージュもカッコ良かった。

時間が余ったので、コレクション展の方を覗くことに。日本の現代作家については詳しくないけれど刺激的な作品が多かった。篠原資明『漂流思考』の表紙に使われていたことで個人的に印象的だった、石原友明の『約束』や、サム・フランシスの大型の絵画が見られて嬉しかった。星野太の『美学のプラティクス』で論じられていた宮島達男の作品も鑑賞できた。三上晴子の作品群や、小澤剛の地蔵建立シリーズもとても好み。かなりの満足感と共に美術館を後にする。

午後からアーティゾン美術館に向かう。「抽象絵画の覚醒と展開」とは、大風呂敷を広げたテーマだと思っていたけど、流石のビッグネームが並ぶ展示に(物量で)圧倒される。クプカやオキーフの作品が生で見られたのと、ザオ・ウーキーの絵画がかなり良くて満足した。正直、午前中で疲れてしまっている上に、作品数も多いので一つ一つの作品をじっくり鑑賞できない。ヘトヘトになりながらも、現代の作品を扱った最後のフロアにたどり着く。展示のテーマに対して必要なフロアかと言うと、正直そうではない気もしたが、柴田敏雄の写真に圧倒される。作品を見た後ですぐに、写真集の情報をスマホで検索した。

この量の作品が学生は無料で鑑賞できるというのは恐ろしいことだと思う。その割に館内には人が少なかった。

東京駅に向かい、晩ご飯を食べて新幹線に乗る。本を取り出すものの、眠くていまいち読む気がしない。車窓の外を風景が流れていく。