Mollusk

集積所。

『雨に唄えば』の雨は誰のものか

 劇映画において、「雨」はしばしば、登場人物の悲しみや、それに伴う涙を表現するモチーフとして用いられる。外的世界の様態に内面の感情を託すという意味で、この演出は表現主義的なものだと言えるだろう。

 このような演出は伝統的だが、使い古されたものでもある。今日では雨を涙の表象として用いることは憚られるのかもしれないし、映画において雨が表現しているのは登場人物の悲しみだけとは限らない。しかし、上記のような演出が一つのクリシェとして数々の映画の中で機能してきたこともまた事実である。

 映画史における「雨」について思いを馳せれば様々な作品が想起される。

 『ブレードランナー』において、2019年のロサンゼルスに降り注ぐ酸性雨、『七人の侍』の合戦シーンに迫力を添える墨混じりの雨、ショーシャンクの空に』のクライマックスにおける「洗礼=生まれ直し」を象徴し第二の人生の始まりを暗示する豪雨、『シェルブールの雨傘』の……

 しかし、何と言っても映画史上名高い「雨」と言えば、『雨に唄えば』のものをおいて他にないだろう。ジーン・ケリーによる雨中のダンスシーンは、多幸感に満ちており、映画全体を象徴する名場面とされている。

 あの場面では、劇映画において雨が通常担わされる役割(キャラクターの悲劇的心情の表現)が逆手に取られている。雨の中で歌うジーン・ケリーの表情には何の悲劇的な様相も浮かんでおらず、それは、それが雨の中の出来事であるだけに観客に一層鮮烈な印象を与えるだろう。

 また、雨は「可視化された重力」でもあり、ジーン・ケリーの素晴らしいタップダンスは、雨の存在によって「重力との戯れ」という意味合いを強調し始めるのだ。

 彼はあの場面において、雨が表現する「劇映画のコード」と「重力」から自由であろうとしている。もちろんその身を雨に濡れるに任せるということは非日常的な行為でもあり、その事実もあの場面に満ち溢れる幸福感の原因の一つだと言えるだろう。(この束の間のダンスは警官という権威によって終わりを告げられるのだが)。

 上記のように、『雨に唄えば』における雨中のダンスシーンは確かに限りなく華やかなもののように思える。しかし、その華やかさは物語の悪役を一身に引き受けたリナ・ラモント(ジーン・ヘイゲン)の犠牲の上に成り立つものだ。

 『雨に唄えば』は、映画が声を獲得しようとしつつある時代のハリウッドを舞台にした、言わば内幕モノのミュージカル映画である。

 サイレント映画からトーキーへという転換期に立たされた俳優たちはそれぞれに時代の変化に対応しようとするが、リナはその畸形的声質によってトーキー映画に適応することができない。そんな彼女が物語上の悪役を担わされる展開からは「個性の否定」や「普通」の押し付けのようなものが感じられるのだ(彼女の性格が悪いという事実は問題ではない)。トーキー映画に適応できた主人公たちの人生の華やかさが強調されればされるほど、時代に適応できなかったリナの哀れさがより強く感じられるだろう。

 そう考えると、あの場面でジーン・ケリーがその身に浴びる雨は「はぐれもの」としての彼女が人知れず流した涙を象徴しているかのように思えてならないのだ。

 もし、『雨に唄えば』がリメイクされるのならば、それはリナを主役に据えたものとなるだろう。そして、雨に洗い流されることで彼女は主役の座を取り戻すのだ。