Mollusk

集積所。

『ブレードランナー』における「絶対への不信」

 『ブレードランナー』を見る度に、この映画の根底には「絶対への不信」とでも呼ぶべき感覚が流れている、という印象を受ける。この映画においてはそのような感覚が様々な形で発現しているように思えるのだ。

 そもそも、この映画がその物語の枠組みとして採用しているフィルムノワールというジャンルの特徴こそが、「絶対への不信」とでも呼ぶべきものだった。
 映像面においても、ノワールの特徴たる、陰影を活かした画作り、室内でシーリングファンによって撹拌される煙草の煙やブラインドの隙間から漏れる光、雨に濡れた路上などの要素が踏襲されている。(主人公のデッカードの情けなさすらノワール的だ)。

 ここで重要なのは、ノワール映画において特徴的な「自分自身の実存が足元から崩れ落ちていく感覚」が、この映画における(リアルとコピーの境界が曖昧になることで生じる)主人公たちのアイデンティティの揺らぎと対応していることだ。原作者ディックの作品における──所謂ディック感覚と言われるような──リアルとコピーの境界線が消失していくモチーフは劇中のあらゆる箇所で変奏される。それは細部では劇中における生物の複製品を指し、物語の本質的な部分においては人とレプリカントの差異に対する問いを指す。

 物語のレベルで発現している上記のような「絶対への不信」は、この映画のヴィジュアル面の根底にも横たわってる。SFにおける未来像の一つのパラダイムシフトとして語られがちな、本作の極めて魅力的なプロダクションデザインは(その、あらゆる時代、地域の文化が混沌の中で雑多に共存している様子から)、時にポストモダン的であると評される。まさに全ての情報が等価値となり、基準が消失した時代ならではのヴィジュアルが画面を特徴付けている。ここにおいても相対性=絶対への不信からなる感覚が濃厚だと言えるだろう。

 物語の骨子は(『ピグマリオン』や『フランケンシュタイン』由来の)創造者と被造物の関係性とそこからの脱却だ。そのような意味でこの映画にはSFジャンルの祖であるゴシック文学的な側面も存在する(モチーフとしてのマネキンや人形)。
題材が題材だけに映画は「父殺し」を描かざるを得ない。ロイ・バッティは創造主タイレルの目を潰し、彼を殺害する。冒頭の眼球のアップショットから、この映画において目は非常に大きな役割を担わされているモチーフだ。人間とレプリカントの違いが眼球の虹彩運動によって判断されるのならば、ロイがタイレルの目を潰す行為はそのまま創造物と被造物の境界線を破壊することを意味する。

 

 こうしてあらゆるものから絶対的な価値が剥奪されたこの映画において、2019年のロサンゼルスに降る雨は、レプリカントたちが生まれながらに持つ宿命的悲哀を象徴するかのようだ。そして、この映画において描かれる涙は2体のレプリカントたちのものをおいて他にない。リアルとコピーの境界線が消失した世界において、それでもニセモノであるはずの彼らの感情だけは本物なのだろう。

 

 とても優れた映画批評家/映画学者の加藤幹郎が『ブレードランナー』を論じた著作。本書では『ブレードランナー』をバルト的な方法で批評するという試みがなされている。著者はテクスト外現実に存在し映画を規定する枠組みである「ジャンル」と、「映画的テクストの肌理」の示す情報を往還して批評を練り上げている。そのような著者のスタンスは、監督リドリー・スコットの意見をすら退けるものだ。それは映画(の映像と音)に真摯に向き合った結果であり、全編に渡って精緻な読みとしか表現しようがない批評が展開されている。多少牽強付会な点は見受けられるが、一つの映画を対象にしてここまで徹底的な読解を行っている本が他に存在するのだろうか、と思わせる一冊。

※著者は『ブレードランナー』を古典的ハリウッド映画との連続性において捉えようとするが、そのために現在一般的には評価の低い劇場公開版の方を評価している。逆に言うと現在一般的なディレクターズ・カット版の評価というのは、『ブレードランナー』以降の映画史に引きつけられたものなのではないだろうか。そこには、理想的な祖先を捏造しようという無意識が垣間見えるように思える。