Mollusk

集積所。

『バーニング 劇場版』

 存在するのかわからない猫や、消えた女、はっきりしない記憶、「納屋を焼く」のが趣味という告白、繰り返される無言電話、牛、フィッツジェラルドにフォークナーなど印象的なモチーフがとてもたくさん散りばめられてはいるが、それらがきちんとした線にならないように延々と断定を避け続けるかのような不思議な映画。
 淡々と描かれる若い3人の日常(ジョンス、ヘミ、ベン)には謎が纏わり付いている。冒頭でヘミが語るパントマイムによって「存在しないという事実を忘れる」技術は、あらゆるモチーフから虚実の断定を奪っていく。
そして、だからこそどこか不穏な雰囲気(=暴力の予感)が全編にわたって漂っている。この作品においては、ほとんど姿を現さないジョンスの父親や、実家のナイフ、ヘミからの電話、ベンの語る「納屋を燃やす」という行為、そしてフォークナーに託されて暴力性が暗示されている。

全編を通して、暴力の予感と世界の美しさが同居するかのような映像が鮮烈な印象を残す。カメラワークの不安定な長回しの映像や、逆光によって人物の顔が陰になるような演出が多用されていて、そのことが映画に不穏な空気を与えている。

怒りの衝動を抑えきれない父親を持ち、ベンにあらゆる面(住まいや住居など)で金銭的な格差を見せつけられるジョンスがフォークナーに共感するのは当然だろう。村上春樹の『納屋を焼く』のタイトルの元ネタになった『Barn Burning』の主人公とジョンスの境遇には重なるところがある。
主に人物の会話からは村上春樹のテイストを感じることができるが、ラストの展開は非常にフォークナー的だ。
(ものすごくストレートに解釈すれば「納屋を焼く」ことは「殺人」のメタファーとして解釈できる。great hungerにも見えるベンが殺人を行なったのかどうかはボカされているが、ジョンスへの仄めかしは事実。だからこそラストシーンのアレがほとんどセックスのように描かれていた点がおもしろい。)