Mollusk

集積所。

日記(23-06-24)

今日は何もせずに過ごした。無為の日。とはいえ本当に何もしなかったわけではない。人間が何も為さなくなるのは、その人間が死んだ時だろう。ということで何もしなかった日でも、自分は色々なこと(呼吸や、排便、睡眠など)を行っている。生きている限り「何もしない」ことなど不可能だろう。普段意識せずとも、内臓は生命を維持するために働き続けている。熱い日差しの中、外に出かけると自分の意志とは無関係に皮膚に汗が滲み出す。ことほどさように、人間の身体は本人の意志とは関わりなく何かを為している(しかしそれらの営みは自由意志の欠如により「何かを為す」ことの内には入れてもらえない)。

考えてみると、身体の中で、自らが意識的にコントロールできる領域というのは極めて小さいのかもしれない。この考えを突き詰めると、我々が自分の意志で為したと思っている行為も、環境と身体の間で起こる非人称的な相互作用の中に解消されてしまうのではないだろうか。この社会は人間の自由意志を自明なものとして運営されているが、上記のような思考を巡らせていると、自由意志という概念も極めて貧弱なものに思えてくる。

自由意志の問題には古来より様々な議論の蓄積がある。僕の部屋にはその議論の蓄積にアクセスするための本がいくつか転がっている(デネットや、青山拓夫、大庭健の著作など)。問題の解像度を上げるためにはそれらの本を手に取るべきだろう。しかし、今日自分はそうしなかった。これは自分の意志によるものなのだろうか。