Mollusk

集積所。

映画

砂漠に揺蕩うアイデンティティ、あるいは『アラビアのロレンス』について

古典は、しばしば古典であるが故に、実体とイメージとの乖離を引き起こす。古典であることによって人々の間で膨らんだ作品のイメージは、その作品の実体の特殊性を捨象し平板化したものに過ぎない。 『アラビアのロレンス(1962)』もそうしたイメージが…

ショットの狭間に潜む悪魔

とても優れた映画学者/批評家の加藤幹郎は、その著書、『鏡の迷路』の中で「一本のフィルムをその画面の密度にしたがって記述すること」を試みた。そこでは、「映画史上もっとも密度の低い画面ともっとも密度の高い画面」を標定し、「すべてのフィルムがそ…

特殊から普遍へ

一ヶ月ほど前、このようなニュースがあった。 www.independent.co.uk記事では、ディズニー社が何の説明もなく『フレンチ・コネクション(1971)』の一部シーンに「検閲」を行い(粗い)編集を施したことが報道されている。問題となるシーンでは、刑事の“ポパイ…

『バーニング 劇場版』

存在するのかわからない猫や、消えた女、はっきりしない記憶、「納屋を焼く」のが趣味という告白、繰り返される無言電話、牛、フィッツジェラルドにフォークナーなど印象的なモチーフがとてもたくさん散りばめられてはいるが、それらがきちんとした線になら…

『ブレードランナー』における「絶対への不信」

『ブレードランナー』を見る度に、この映画の根底には「絶対への不信」とでも呼ぶべき感覚が流れている、という印象を受ける。この映画においてはそのような感覚が様々な形で発現しているように思えるのだ。 そもそも、この映画がその物語の枠組みとして採用…

『チャイナタウン』あるいは不可視の結末

映画において「衝撃的な結末」は、観客の日常への帰還を遅延させる。その遅延の間に映画は自身の印象を観客の脳裏に刻み込む。それは映画が取るある種の生存戦略とでも言うべきもので、『チャイナタウン』もそうした戦略を取った映画の一つである(そしてそ…

『雨に唄えば』の雨は誰のものか

劇映画において、「雨」はしばしば、登場人物の悲しみや、それに伴う涙を表現するモチーフとして用いられる。外的世界の様態に内面の感情を託すという意味で、この演出は表現主義的なものだと言えるだろう。 このような演出は伝統的だが、使い古されたもので…

『ヤンヤン 夏の思い出』

ヤンヤン 夏の想い出 [DVD] ウー・ニエンジエン Amazon 台北に住む、それぞれに大きく、小さい問題を抱えた家族のドラマをこれ以上ないほどに美しい映像で描き切った、エドワード・ヤンの遺作。 映画は結婚式から始まり葬式で幕を閉じるが、その間の群像劇は…