Mollusk

集積所。

砂漠に揺蕩うアイデンティティ、あるいは『アラビアのロレンス』について

古典は、しばしば古典であるが故に、実体とイメージとの乖離を引き起こす。古典であることによって人々の間で膨らんだ作品のイメージは、その作品の実体の特殊性を捨象し平板化したものに過ぎない。

アラビアのロレンス(1962)』もそうしたイメージが先行した映画のひとつだと言えるだろう。この映画はしばしば、以下のような文言で紹介される。

アラブ民族独立に尽力した実在のイギリス陸軍将校T・E・ロレンスの波乱に満ちた半生を、「大いなる遺産」の名匠デビッド・リーンが壮大なスケールで描いた不朽の名作。*1

第一次大戦下のアラビア半島を舞台に、英国陸軍将校でありながらアラブ民族の独立闘争を率いたトーマス・エドワード・ロレンスの冒険と、その苦悩と波乱に満ちた生涯を描いた壮大なスペクタクル・ロマン。美しくも過酷な砂漠の描写が圧倒的。*2

The story of T.E. Lawrence, the English officer who successfully united and led the diverse, often warring, Arab tribes during World War I in order to fight the Turks.(第一次世界大戦中、トルコと戦うために、抗争中だった様々なアラブ部族を結束させ導いた、イギリス人将校、T・E・ロレンスの物語)*3

実際は、上記のような紹介文が取りこぼしているものこそが、この映画が描こうとしたものである。典型的な『アラビアのロレンス』に関する紹介文は、劇中で否定される「英雄としてのロレンス」像をなぞったものでしかない。

しばしばこの映画のメインビジュアルとして使用されてきたこの写真も、「英雄としてのロレンス」像を未来の観客に印象付けるだろう。

では、『アラビアのロレンス』は何についての映画なのか。端的に言うと、この映画はロレンスのアイデンティティを、そのクィア性を描いた映画だ。

ロレンスは映画全体を通してイギリスとアラブ、二つの文化の間を揺れ動く存在として描かれる。映画冒頭、彼はカイロのイギリス軍司令部において、およそ軍人らしからぬ人間として描写される。彼の軍服の着こなしの不格好さ、不自然な敬礼や、「男らしくない」喋り方は、彼が変わり者として周囲から浮いた人間であることを観客に印象付ける(周囲の人間の会話からは、実際に彼が「変わり者」であると噂されていることがわかる。)。

軍部の命令の下、ロレンスはアラブの砂漠に向かう。彼はそこでアラブ民族を束ねて、オスマン帝国に対するゲリラ戦を次々と成功させていく。英雄としての「アラビアのロレンス」の誕生である。イギリスにおける変わり者が砂漠において英雄と化す。

ロレンスは砂漠における作戦行動の過程で、徐々にアラブの風習に馴染んでいく。最初は軍服を着ていたロレンスも、アラブ人の仲間に認められることで彼らの民族衣装を身に付ける事を許される。戦友であるアリから「オレンス」というアラブ風の名前を与えられ、彼らの民族衣装に身を包んだ彼は、自身の男性性を確認するかのように股間にある鞘に刺してあったナイフをじっと見つめる。彼はアラブの砂漠において、自身の男性性にアイデンティティを見出したのだ。しかし一方で、砂漠に映る自らの影(=虚像)を見て舞うロレンスの姿は、男性=英雄としての彼のアイデンティティが虚構のものでしかないことを暗示している。

「自身の男性性を確認するかのように股間にある鞘に刺してあったナイフをじっと見つめる」

上記のような舞は、映画の後半でもリフレインされる。オスマン帝国軍の鉄道に爆弾を仕掛けて機関車を爆破したロレンスは、倒壊した列車の上で衣装をたなびかせ太陽を背にして踊るのだ。男性性にアイデンティティを見出したロレンスの、ナルシスティックな全能感に満ちている様子を表すシーンだが、ここでもその全能感が虚構のものでしかないという暗示がなされている。アラブ人たちがロレンスの砂漠に投影された影を追う様子を撮った短いショットが、アラブ人が追い求める、英雄としての「アラビアのロレンス」は虚像に過ぎないことを示している。

「アラブ人たちがロレンスの砂漠に投影された影を追う様を撮った短いショット」

ロレンスの自己神格化は止まるところを知らない。彼は、列車の爆破から生き延びたトルコ人が撃つピストルの弾を避けようとすらしない。まるで、神である自分には弾が当たらない、とでも言うかのように。その姿は、観客に映画冒頭の「砂漠を楽しめる者は、ベドウィンと神だけだ」というセリフを想起させるだろう。ロレンスの自己神格化を描いたシーンはこれだけではない。オスマン帝国占領下のダルアーに偵察のため赴いた彼は、付き人が避けて通る水たまりの上をわざわざ歩いて見せる(ここでは、言うまでもなく水の上を歩いたキリストのイメージが参照されている)。

しかし、偵察に向かったこの地でロレンスはオスマン帝国軍の将校に捉えられ、辱めを受ける事になる。解放されるとともに水たまりの土砂の中に倒れこむロレンスの姿は、前述した水たまりの上を歩く彼の姿と対照的だ。この出来事が大きなきっかけとなり、彼は自分が全能ではないことを悟る。自身の男性性を挫かれる体験は、彼を神から(そして英雄から)ただの人間へと引き戻してしまう。この事件の後、ロレンスは祖国への帰還を強く希望するようになる。

そもそも、ロレンスは軍人らしくない人間として描写されてきた。私生児として生まれたイギリスにも自分の居場所を見つけられず軍人となったロレンスだったが、そこでも変わり者として周囲から浮いてしまう。アラブの砂漠に自身の真のアイデンティティを見出したと思ったのも束の間、現実は彼に自身の「何者でもなさ」を突きつける。

ロレンスのアイデンティティはイギリスとアラブ、二つの空間を行き交い、そのどちらにも限定されることがない。実在のロレンスがホモセクシュアルであったことを鑑みれば、この映画におけるロレンスのアイデンティティの彷徨に彼のクィア性が託されていることは自明だろう(彼は男性性を自らのアイデンティティとして生きることを否定されたという意味で、そしてそれに代わる何かを遂に見つけられなかったという意味で悲劇的な人物である)。この映画の中でロレンスのアイデンティティは、砂漠において手からこぼれ落ちていく砂のように、あらゆる限定から逃れ去る。

この映画に登場する人物は、立場によって様々なロレンス像を抱いている。しかし、彼の複雑なアイデンティティクィア性を理解しているのはアリだけだ。周りがロレンスを英雄視する中で、ただ一人アリだけが等身大のロレンスを見つめている。彼のロレンスに対する感情も非常に曖昧なものとして描かれている(そこには同性愛的な含みさえ感じられる)。

アラブの統一に失敗したロレンスは、失意の中、故郷に帰還する。結局、アラブの砂漠に自らの居場所を求めようとした彼のアイデンティティの探索の試みは失敗に終わる。ロレンスは自らの出自を超えた「何者かに」なることはできなかった。

 

映画冒頭でロレンスはバイクを駆り、田舎道を疾走する。待ち受ける「死」を前にして、ロレンスは彼にまとわりつくあらゆるしがらみから逃れようと、「ここではないどこか」へ行こうとしているかのようにさえ見える。

*1:映画.com「アラビアのロレンス:作品情報」https://eiga.com/movie/42205/

*2:午前十時の映画祭13 デジタルで甦る永遠の名作「「アラビアのロレンス/完全版」上映作品詳細」https://asa10.eiga.com/2023/cinema/1202/

*3:IMDb「Lawrence of Arabia(1962)」https://www.imdb.com/title/tt0056172/