Mollusk

集積所。

ありふれた奇跡に賭ける

読書という選択肢を他人に提案することは、時に暴力的でさえある。世の中には本を読むことが苦手な人がいて、そのような人たちにとって上記のような提言は極めてエリート主義的に聞こえるだろう(そしてそのような人たちの数は極めて多い)。プロのマラソン選手が毎日何十キロもの距離を悠々と走っている一方で、大多数の運動に興味のない人間にとっては数キロの距離を走ることさえ難しい。同じことが読書についても言えるだろう。このような現実を認識していなければ、「本を読め」という提言は「読む人」と「読まない人」との間の分断を強める結果にしか繋がらない。知識の差によって生じた分断を狭めるために提案した読書という選択肢が、分断をさらに大きなものにしていく。

そもそも、大多数の日本人は労働の合間に発生したわずかな余暇を読書という行為に充てようとは思わないだろう。労働に従事して疲弊した肉体は読書という行為を拒絶する。そのような状態の人間に「本を読め」ということにどれほどの意味があるのか。読書は特権的な行為であり、「読む人」はそのことに自覚的でなければならない。

恐らく、他者に本を読むことを薦める心性の根底にはある種のイデオロギーが存在している。そのイデオロギーは、「正しい手順を踏めば人間は相互に理解し合うことが可能である」と囁く。しかし、他者とは、自身と共約しえないからこそ他者なのであって、人と人との関係性においては分断こそが正常な状態なのだろう。そこで日々生じているコミュニケーションは、ありふれた奇跡に過ぎない。

他者は基本的には自分の思い通りにはならない存在だ。その意味で私は日々をある種の諦めを前提として過ごしている。しかし、諦めが前提としてあるからこそ、コミュニケーションというありふれた奇跡が一際強く輝きうる。その意味で私はニヒリストではない。(それが暴力的な行為となりうると自覚した上で)他者に対して本を薦めることもあるだろう。