Mollusk

集積所。

速さの外に身を置くこと。

基本的に本を読むという行為は孤独なものだ。本を読む時、人は内省的にならざるを得ない。今、「本」という言葉を使用した。「本」と一口に言っても、現代の日本においてその内実は多岐にわたる。資格試験のための参考書や料理本、ファッション雑誌なども当然「本」である。我々はしばしば、「読書」という営為を想像するときに、上記のようなジャンルに分類される本を読む行為を排除しがちである。その代わりに、「読書」という行為は文学作品や、人文書を読むイメージと結び付いている。そこには「教養」という概念との密接な関わりが存在する。

読書とは教養のために行うものである、というある種のイデオロギーがある。教養とは自己目的的なものである。その立場に立てば、読書という行為自体も自ずから無目的的な意味合いを帯びてくる。この時代においてさえも、「読書とは無目的的なものでなければならない」という幻想は根強いように思える。しかし、上記の「読書」のような生産性の低い行為は遅かれ早かれ人々の生活から淘汰されていくだろう。「教養」は既にほとんど消滅しているし、社会からは無駄がなくなっていく。この点に関して自分は楽観的ではない。

ところで、目的もなしに本を読むという行為は、社会の外で立ち止まることと等しい。自分以外の人の流れを横目で見つつ、足を止めて独りでモノを考えること。「速さ」の外に身を置くこと。そのような時間があって初めて、ヒトは他者に対する想像力を養うことが出来る。しかし現行の社会ではそれは難しい。大多数の人々は、社会の外で立ち止まることさえできないのが現状だ。

当然、速さの外に身を置く人間は周囲の環境から浮いてしまうだろう。時にそのような人々は空気が読めない変わり者として揶揄されるかもしれない。しかし、そのような人々こそが有事の際に正しい判断を下すことができると自分は信じている。決して少なくはない歴史的な事実がそのことを証明しているように思える。