Mollusk

集積所。

特殊から普遍へ

一ヶ月ほど前、このようなニュースがあった。

www.independent.co.uk記事では、ディズニー社が何の説明もなく『フレンチ・コネクション(1971)』の一部シーンに「検閲」を行い(粗い)編集を施したことが報道されている。問題となるシーンでは、刑事の“ポパイ”が、相棒の”クラウディ”との会話の中で人種差別的なスラングを発している(具体的にはNワード、など)。The Criterion channelや、itunesストアで配信されているバージョンでは上記のシーンが確認できないとのこと。

この事態は日本のSNSでも少し話題になり、ディズニーの歴史修正主義的な態度に批判的な声が集まった。

一方でディズニーは自社制作のCGアニメに過剰なまでの「ローカライズ」を施していることでも知られる。このローカライズの下では、劇中に出てくる看板や広告の文字は、各地域の言語に修正される。観客はそれらをまるで「自国のもののように」鑑賞することができる。

私見では、今回のディズニーの『フレンチ・コネクション』への処置には、自社制作のアニメーションにおける上記のようなローカライズと通底するものがあると思われる。ディズニーは作品の「歴史性」と「地域性」を拒絶している。そして、その根底には、表現から歴史性や地域性を取り除くことで「普遍」に到達しようとする欲望が存在する。

このような態度は極めて浅はかで暴力的ですらある。多くの場合、作品が古典として語り継がれていくのは、その作品が(同時代的に見て)「特殊」なものだったからだろう。突出して特殊なものこそが、後のスタンダードを作り、普遍的なものとして残っていく。半径3メートル以内の言葉で綴られた言葉が、地球の裏側にいる数十年後の誰かの心を動かすこともあるだろう。

 

どのみち我々には、異なる時代の、異なる地域の下で生まれた表現を「異文化」として受容する権利がある。他者への想像力とはそのようなものに触れることで培われていくものでもあるはずだ。

(※この文章は「ポリティカル・コレクトレス」を批判する文脈のものではない。ポリティカル・コレクトネスはしばしば(同時代的に)「特殊」なものを描くことを推進してきた。)