Mollusk

集積所。

ショットの狭間に潜む悪魔

とても優れた映画学者/批評家の加藤幹郎は、その著書、『鏡の迷路』の中で「一本のフィルムをその画面の密度にしたがって記述すること」を試みた。そこでは、「映画史上もっとも密度の低い画面ともっとも密度の高い画面」を標定し、「すべてのフィルムがそこに収まりうるような両極の設定」が試みられている。

密度が低く希薄な映画空間の例として挙げられているのは、雪と氷の戦場、砂丘(白の空間)、夜、雨に濡れた舗道(黒の空間)などのトポスである。特にアントニオーニの『赤い砂漠』における「霧の波止場」を映したショットは、「映画的隠喩」ではなく「無」を表現しているとして、映画史上もっとも密度の低い画面とされている。

一方、高密度の画面の極の例としては、ヴィスコンティの『夏の嵐』における群衆に満ちたオペラハウス(「色彩と形態と運動において官能的な過飽和を迎える」)や、「洪水のあとの部屋」などが挙げられる。

加藤が言うところの「画面の密度」は、端的に画面の情報量(エントロピー)と言い換えることもできるだろう。

当然のことながら、ショットが切り替わることで画面の情報量は変化していく。一本の映画は、個々に情報量の異なる画面の集積である。

この事実に思いを馳せる時、私はいつも、ある空想に囚われる。その空想の中では、ショットとショットの間にある、決して知覚され得ない空隙にマクスウェルの悪魔が潜んでおり、画面のエントロピーを自在に操作している。そこにおいて、映画を観るという行為は、画面の上で彼らのはたらきの痕跡を確かめることに等しい。

いずれにせよ、映画はそのメディアの物質性(=無)を露にすることで終わりを告げる。我々がショットとショットの間に潜む悪魔を垣間見ることは決してない。