Mollusk

集積所。

『須賀敦子全集 第1巻』

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 デビュー作である『ミラノ 霧の風景』と著者のイタリアでの人的交流の拠点となった書店での日々を描いた『コルシア書店の仲間たち』、そして十二人の人物たちの肖像をスケッチ風に描き出した連作『旅のあいまに』が収められた全集一冊目。 

 収録作品はいずれもイタリアでの美しい青春時代を遠く離れた異国の地から永い時を隔てて振り返ったエッセイ。この条件が生じさせた対象への絶妙な距離感がこの本全体に寂寥感を与えている。かつての仲間たちのその後は決して明るいものばかりではなくそれだけにまつりのあとのような静けさが伝わってくる。

 著者の文章は、普通の人々が生きていく上でとりこぼしてしまうような事柄やそれにまつわる感覚を丁寧に掬いとる。異邦人が異国の地の社会や歴史の厚みに、少しずつ時間をかけて自らの身体を浸透させていくということ。その過程で知ったことや感じたことに対して誠実に向き合ったことが著者の文章の豊さに寄与しているように思えてならない。視覚的な事柄だけでなく、匂いや音、触覚や味覚などの描写によっても構成された文章からは著者のイタリアでの日々の豊さが伝わってくる。

 そういったものを感じ取ることができるだけの精神的な余裕が著者にはあったのだろう。著者の文章はとても豊かなものだけれど、これみよがしなところは少しもない。だからこそ水のようにスッと読み手の中に入り込んでくる。

 極めて自意識の希薄な文章であることが、逆説的に著者の余裕をもった対象へのまなざしを浮かび上がらせている。この本を読んでいる間、著者の世界に対する透徹したまなざしが自分にも乗り移って、ほんの少しだけ世界が豊かに見えて来るような気がした。その意味でこれ以上に素晴らしいエッセイは存在しないとすら思えるのだ。